サイレン SILEN(ce) 下書きブログ

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レッシグの議論と

 

サンスティーンという固有名を超える!――めんどうな自由、お仕着せの幸福第6回(最終回) / 成原慧×那須耕介 | SYNODOS -シノドス-

 

レッシグがおもしろい。いまさらこうした議論にとっくみあっている俺。

サンスティーン→リバタリアンパターナリズム
レッシグ→デモクラティック/ハッカー二次創作/フリー

という価値観のちがい。

 

成原 そうですね。ええ。サンスティーンの自由観が「アーキテクチャによって設計されたA、B、Cという選択肢からいずれかを選択すること」だとすれば、レッシグの自由観は「既存の選択肢を相対化して新しい選択肢をつくること」、つまりその選択肢をずらして再定義することを自由としてとらえているように思います。

ただ、レッシグの自由観も更地の自由じゃなくて、A、B、Cという選択肢がある既製品を与えられたら、カスタマイズしてDという選択肢を加えたり、AとBを組み合せてABみたいな選択肢を自分でつくったりだとか、既存のものをうまく組み替えてハックする自由のようなものを想定しているようにみえます。

那須 「ハックする自由」は、ある意味では従来通りの自己実現の自由だけど、「ゼロからの創造」のような、ロマン主義的な自己実現の自由という牧歌的な色彩はないと。

成原 そうですね。既存の制度やアーキテクチャを前提としてそれを組み替える自由ということができるかと思います。 

 

成原 アメリカにおけるある種の古典的な自由觀が、西部開拓時代のフロンティアにおける自由だとすれば、レッシグの想定する自由は、都市が築かれたところで、既存の都市の文化や技術を組み替えたり、読み替えたりして、いかに新たなものを築いていくかというもので、都市生活を前提とした自由観だと思いますね。

 

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ドミニク・チェンの話もおもしろい。

「オフグリッドの世界と、その可能性」~ナショナリズムとの関係編~ | 一般財団法人 Next Wisdom Foundation ネクストウィズダムファウンデーション

 

コンピュータ科学者アラン・ケイの「未来を予測する最適な方法は、それを発明してしまうことだ」という有名な言葉がありますが、僕はそれを読み替えて「世界を理解することは、それを創り出すことだ」と考えています。いまどうしてこんなことが起こっているのか? これから何が起こるのか? 過去の分析や未来の予測をしている時間があれば「私たちはいまどういう世界をつくりたいのか?」ということに社会としてもっと時間を費やした方がいいと思います。

 

しかし、だからといって絶望する必要はありません。世界は主観的にしか立ち上がらないけれども、それでも主観世界同士で交流し合って影響し合うことができる。 

 

アメリカの政治学フランシス・フクヤマは、「苦痛を経験できる能力こそ、他のすべての人間とつなげてくれる共感の源泉である」と言いました。共感を数値化する目処は立っていないにもかかわらず、共感の仕組みや情報を伝える仕組みをアルゴリズムに任せてしまっているのが現状です。

 

竹村真一さん。

 

ソクラテスプラトンは面白い関係で、私たちはいまソクラテスの思想に触れることができますが、それはすべてプラトンの著作からです。なぜかというと、ソクラテスは文字を警戒していたからです。文字が人間の心のOSを退化させると、自分では本を書きませんでした。 

 

プラトンはしたたかに、ソクラテスの思想を受け継ぎながら全部自分で本に書いた。そのプラトンの国歌論を紐解くと、これからしっかりした国家を作っていくためには、文字を基盤にして歌い手や吟遊詩人のような口頭伝承の達人を追放しなければならないと言っている。文字に依拠してスタティック(静的)に凍結された秩序の中で国家を運営しなければならないと。

 

同じ時代に中国では、漢字という文字が多民族をつなぐ有効なOSとして広がって行きましたが、逆に文字によって人間の言語空間のあり方が捕獲されていく時代でもありました。その時代の思想家たちは、新しい文字的な秩序を受け入れながらも、文字や国家に虚勢されない心のあり方を探ろうとしていた。

 

このように、心のOSを設計する大変なチャレンジングな時代を、今の我々は歴史を振り返って「精神革命」と呼んでいる。その可能性というものを我々はまだ充分に開ききっていないのではないか、仏陀の思想や老子孔子のやろうとしたことをもう一度、いまやり直さなければいけないところにきているのではないかと感じます。

 

対談部分から。

 

ドミニク:3000年をまたぐお話、ありがとうございました。言葉や文字といったものをソクラテスが警戒してた、それを今風にいうと、記憶を外部化することのリスクだと思います。言葉というものを貯蔵しておいて、その対話の時々で生まれる言葉に価値がある、その一回性の中に真実が宿るとソクラテスが信じていた。

 

私も哲学を高校時代に学んだ時に、「ソフィアを愛する」、つまり知恵や叡智を愛するという意味の「フィロソフィー」に対して、教義への愛、意見への愛「フィロドクサ」をその対極にあるものだとソクラテスは批難していたことを知りました。いわゆるオピニオンリーダーというものをソクラテスは蔑視していて、雄弁で大衆を魅了するような人はフィロソフィーではなくフィロドクサの人であると。みんなの思考を促すのではなくて、みんなに自分の考えをインストールしてしまうような人を哲学の敵であると批難していたことを、竹村先生のお話を聞いて思い出しました。

 

記号接地、英語でシンボルグラウンディングという言葉がありますが、自分事で話をしている時にそれを聞いている人はすごく共感しやすい、ということがあります。たとえば自分の友達が南米に行ってきて凄い体験をしてきたと聴くと記号接地しやすいのですが、シリアでアサド政権がこんなに非道なことをしていると言われても、シリアに行ったこともなければそこに住んでいる人のことも知らないとなると簡単に共感できない。そこに身体的な限界があります。

 

AIと人間の心


ドミニク:情報量が多過ぎると、創造性が少なくなってしまう。そこは私も常日頃考えている問題で、たとえば文学作品というものは、読み手が文字情報を解凍して、脳の中で意味を生成することで、自由にイメージを膨らませることができる。一方、コンピューターグラフィクスで緻密に作られた映画は考える余地を与えられず情報全てをそのまま受け取るしかない。瞬間的な体感としては圧倒されますし、全員が同じ世界を見るということには役立つのかもしれませんが、そこにゆらぎや多様性は生まれない、そこがジレンマだと思います。

 

AI(人工知能)が代表する問題というのは、我々が自分自身の脳みそを使ってモノを選択したり決断したりということに対して、ある種第3の脳としてAIがそれを代替してしまうと人間の自律性に問題が出てくるということ。AIがどこまで僕たちの代わりに判断すべきなのか? 主人と奴隷の弁証法ではないですが、奴隷が優秀になっていった結果、主人との関係性が逆転してしまう。その先には人間が人間である必要性がなくなる閾値がある気がするんです。

 

自動化の果てには、本当に映画のマトリックスのような、ただ呼吸をして労働をして税金を徴収されて全体に貢献している、としかいいようのない状態になってしまう可能性もある。その時に人間の自律性というものをどう支援するか、その気付きを生み出すためにテクノロジーを使う必要があるのではないか。そのような議論がいまAIやヒューマンコンピューターインタラクションの領域などでも 始まっています。

 

竹村:スタディというよりも、先ほどのキーワードの一つでもある「更新」ですね。一番いいスタディは創造的に更新すること、「理解」への最大の近道は「つくる」こと。仏教を更新する必要があります。日本には仏教というものを大変ドラスティックに更新した歴史があります。南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経で浄土に行けるというのは、大変ドラスティックな大革命なんです。それは苦行のなかで考え抜いた、仏陀以来、空海も含めて、厳しい修行の最果てに行き着いたミニマリズムだろうと思うんです。鎌倉新仏教の法然親鸞というのは大変な仏教の歴史における大革命なのですが、OSを更新した。それと同じような営みがいま行われているんですね。

 

ドミニク:漢字の起源の話について、最近僕は能の謡(うたい)の稽古をしていて、よく能楽師の安田登先生と話をするのですが、文字の発明というものは人類が最初に経験したシンギュラリティ(技術的特異点)なのではないかというアイデアがあります。彼の説によると、漢字の原型ができたのが紀元前1300年くらい、そこから「心」という漢字が出てくるまで300年かかった。つまり古代人というのは紀元前1300年以前まで現代の私たちが考える「心」というものは存在しなかったのではないか、ということです。

 

心ができてから、過去と未来を隔てる時間軸が出てきた。心が生まれたおかげで計画を立てたり農耕をしたり、国家を運営したりすることができるようになったが、副作用で未来への不安や過去への後悔も生まれた。それから人類は3000年ほど生きてきたが、心の副作用みたいなものが肥大化し過ぎてきたのではないか。だから、次のシンギュラリティは人間の心のアップデートバージョンをどう作るかということなのではないかと。

竹村:僕はチャンスだと考えているんです。それまで人間の優れた特徴であると考えられていた理性的な知性がAIにとって代わられることになります。それまで人間の知性のほんの一部である理性的な思考によって、すべてを言語化・文字化・空間化し、私たちを過去・現在・未来に制約してしまう思考からもっと自由になれるチャンスが生まれている。その知性をAIが受け持つことで人間はもっと自由になれるかもしれない。僕はAIと人間が共進化するのではないかと思っているんです。 

 

生命には多くの謎が残されていると先生からお話がありましたが、最近バイオテクノロジーのカンファレンスに出席するなど、微生物や菌の世界に取り憑かれています。私たちの身体の中に細胞の数以上の腸内細菌やマイクロバイオームが棲んでいて、重さにして1.5kgくらいにもなるそうです。しかし地球上の微生物たちの98%はまだ解明されていないらしいんですね。人間の気分や感情、性格や知性といったものに、目に見えない微生物たちが実は関与しているということがだんだん分かってきているんです。 

 おお、身体の多様性とは菌や微生物によって担保されている、という見方もできるなあ。

 

「障害」から

▼コミュニケーション障害とは「ある人とある人がコミュニケーションした際に、両者のあいだに生じる障害という現象」なのだという。

 

▼人と人が付き合うのはむずかしい。お互いの世界観があるからだ。人間関係に悩み果て、あれこれ考えた果てに、発達障害に関する情報にあたってみた。

 

▼綾屋沙月さんのTEDでの講演、熊谷晋一郎さんとのテレビドキュメンタリー、著書『つながりの作法』、すべてとても深く勉強になった。

 

▼なにかトラブルが起こったとき、誰かの「せい」にしたくなる。そこには「自己責任」の論理もまた通底している。綾屋さんたち、あるいはべてるの家の周辺のことばに接していると、そうした認識とはことなる世界観へとひらかれるおもいがする。

 

 

①☃ずれる、ずれる。かなしいなあ。ぼくが「ずれている」のか、向こうが「ずれている」のか。わからないけど、どうやらお互いの世界観の前提がちがっているようだ。

 

②☀ああそうだなあ。どっちが悪いとか、もう決めっこするのはよそう。ぼくは悪くないし、向こうも悪くない。一度、そうかんがえてみたっていいんだ。

 

③☁社会は、個人に責任を負わせ、物事を処理し前に進もうとする。そういう「決め方」にも、たくさんの蓄積がある。○○は許されないぞ、とか、大人なんだから、とかいう物言いの前提にあるのは、そうした蓄積からくる世間の感覚なんだ。ぼくはいいかげん嫌になってしまった。

 

 

発達障害当事者研究、そうした文脈からえられる、中動態(?)の認識は、今後おおいに、あるいは切実に必要とされるものではないか。そんな風に思える。明るい兆しがそこから見えるような、小さいけれどたしかな道筋が。

 

▼この社会の価値認識がなめらかにまわらなくなっている。ごつごつとあたり、その都度痛みを表出させている。技術(テック)は進歩しているし、さまざまな情報環境も更新されつづけている。しかし社会そのものがなかなか新しくならない。そこにこびりついている古い価値認識が、新しい人の自由を疎外している。見えない損失はふくれつづけている。ざくっとした印象だけれど、しかし課題が見えやすくもなった。どこにどうコミットするか。二の足を踏む実感も増えた。

 

▼「当事者研究」の手法は僕にとって清新で、なおかつ芯をついたものだった。自分でも自己問答とかなんとかいってよくノートに心象を書き連ねた時期があったが(いまでもあるけど)、それと近いように思える。けどもっと厳密性があるものだ。とてもユニークでおもしろい。たとえば綾屋さんは、文章を順序よく目でたどることが苦手なそうだが、どうも文字自体を細かく分解して、その分解した部位そのものに集中してしまうということがあるそうだ。そういうことがあるということを、教えてもらわないとわからなかった。当事者が、自分の感覚を言語化して外に伝える、という作業の有効性がそこにある。

どどどどどど?どどどど

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発し「ない」言葉

機械のような人間にみえて
彼らが
ぼくはその内の一味だと
見ない/見なされないようにし

ぼくの選択はまちがっていたろうか
根拠

理由

説明

伝わらなくなっている/た
世界で
これ以上は
なにを
あらわしていける/いっていい
でしょうか

いまは破壊の
の言葉より
自分を慰撫する
ことしかできなくなった
そのような精神圏のなかで
キリストの
刃は
カクレキリシタン
のようにしかあらわれない/えない
であろう(きっと


発し「ない」言葉
機械のような人間にみえて
彼らが
ぼくはその内の一味だと
見ない/見なされないようにし

ぼくの選択はまちがっていたろうか
根拠

理由

説明

伝わらなくなっている/た

 d

s*1


世界で
これ以上は
なにを
あらわしていける/いっていい
でしょうか

いまは破壊の
反逆の言葉よ

 


自分を慰撫する
ことしかできなくなった
そのような精神圏のなかで
キリストの
刃は
カクレキリシタン
のようにしかあらわれない/えない
であろう(きっと

*1:ここに脚注を書きまっdす