サイレン SILEN(ce) 下書きブログ

サイレンの下書きブログです。

「障害」から

▼コミュニケーション障害とは「ある人とある人がコミュニケーションした際に、両者のあいだに生じる障害という現象」なのだという。

 

▼人と人が付き合うのはむずかしい。お互いの世界観があるからだ。人間関係に悩み果て、あれこれ考えた果てに、発達障害に関する情報にあたってみた。

 

▼綾屋沙月さんのTEDでの講演、熊谷晋一郎さんとのテレビドキュメンタリー、著書『つながりの作法』、すべてとても深く勉強になった。

 

▼なにかトラブルが起こったとき、誰かの「せい」にしたくなる。そこには「自己責任」の論理もまた通底している。綾屋さんたち、あるいはべてるの家の周辺のことばに接していると、そうした認識とはことなる世界観へとひらかれるおもいがする。

 

 

①☃ずれる、ずれる。かなしいなあ。ぼくが「ずれている」のか、向こうが「ずれている」のか。わからないけど、どうやらお互いの世界観の前提がちがっているようだ。

 

②☀ああそうだなあ。どっちが悪いとか、もう決めっこするのはよそう。ぼくは悪くないし、向こうも悪くない。一度、そうかんがえてみたっていいんだ。

 

③☁社会は、個人に責任を負わせ、物事を処理し前に進もうとする。そういう「決め方」にも、たくさんの蓄積がある。○○は許されないぞ、とか、大人なんだから、とかいう物言いの前提にあるのは、そうした蓄積からくる世間の感覚なんだ。ぼくはいいかげん嫌になってしまった。

 

 

発達障害当事者研究、そうした文脈からえられる、中動態(?)の認識は、今後おおいに、あるいは切実に必要とされるものではないか。そんな風に思える。明るい兆しがそこから見えるような、小さいけれどたしかな道筋が。

 

▼この社会の価値認識がなめらかにまわらなくなっている。ごつごつとあたり、その都度痛みを表出させている。技術(テック)は進歩しているし、さまざまな情報環境も更新されつづけている。しかし社会そのものがなかなか新しくならない。そこにこびりついている古い価値認識が、新しい人の自由を疎外している。見えない損失はふくれつづけている。ざくっとした印象だけれど、しかし課題が見えやすくもなった。どこにどうコミットするか。二の足を踏む実感も増えた。

 

▼「当事者研究」の手法は僕にとって清新で、なおかつ芯をついたものだった。自分でも自己問答とかなんとかいってよくノートに心象を書き連ねた時期があったが(いまでもあるけど)、それと近いように思える。けどもっと厳密性があるものだ。とてもユニークでおもしろい。たとえば綾屋さんは、文章を順序よく目でたどることが苦手なそうだが、どうも文字自体を細かく分解して、その分解した部位そのものに集中してしまうということがあるそうだ。そういうことがあるということを、教えてもらわないとわからなかった。当事者が、自分の感覚を言語化して外に伝える、という作業の有効性がそこにある。